ジムニーJB74ウインドウッシャー出ない





雨なのでウインドウッシャーを使おうとしたが水がでない。あれ、水がないかな?と思いモーターの音を聞くと水はある感じ。ボンネットをあけてフロントウインドウ下部のアッパーパネルを点検する。ウッシャーノズルの、黒いゴムのパイプが外れている。出ないわけだ。先日のアウターロールケイジの試作作業のときに忘れたのだろう。ワッシャーノズルにパイプをつなごうとしたが、狭くて手が入らない。そこで、アッパーパネルのフロントの固定を外して、上に持ち上げてからウッシャーノズルにパイプを接合させる。見えないので、手と指を使い隙間が出ないように一番上までホースを差し込む。指の感触で隙間を、再度確認して完了。あとは、カウルアッパーパネルを元も戻す。ウッシャーをテストする。OKだ。水が出たので、ボンネットを締めて作業完了です。、
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角上魚類へいく

今日は富士川飛行場でフライト&JB74の撮影予定だったが、雨で中止になった。そこで、相模原の角上魚類へいく。ここは、すごい。おいしそうな魚がいっぱい。見たことがないものも沢山ある。今日は、お寿司、ホッケ、筋子、ホタテ、カキ等を買いました。スーパーや普通の魚屋さんには無いものが沢山あり、つい、沢山買ってしまいます。月に一度くらいは行きたい場所です。魚のビジネスをを深く追求するとこうなるという好例だ。コンセプトJは、狭く、深く掘る、RV4ワイルドグースと似ていると思います。角上魚類は魚、RV4はジムニーという違いはありますが、思想は同じかと。だから、ここに来ると、いつも刺激をうけて、勉強になります。
篠原のたまねぎ
横原自動車いく
西伊場の松本自動車を訪問する



先日、スズキ本社に打ち合わせに行ったので、浜松の西伊場にある松本自動車に立ち寄る。先代の松本社長が確か89歳で亡くなられたと聞いたので、現在の松本真幸社長へお悔やみをのべる。真幸社長は一番下の5番目のだそうだ。生前、先代の松本社長が『よくJCJの二階堂さんが、いつもこの工場に来てジムニーをいじっていた』と、松本さんの子供たちに、繰り返し話していたそうで、『二階堂さんのことは、父から何度も聞かされました』と言われ、なんだか恐縮してしまう。
スズキの販売店には、鈴木修さんが私の著書を何度もお買い上げいただき、配布していただいているので、スズキの販売店では私の名前はかなり知られている。そのことを、先代の松本社長は自分の子供たちに自慢していたことがわかり、誠に光栄である。1982年からインドネシアに行くまでの6年間、毎週、松本自動車の工場でジムニーを整備したり、修理したり、改造したりしていた。整備のコツを教えてもらったことも数知れない。今考えれば、実に迷惑な客である。聞くと、お葬式には鈴木修相談役と鈴木俊宏社長が来てくれたそうだ。さすがだなーと思いました。
1982年にJCJを作り、ここでジムニー1000を皆で14台くらいまとめて購入した記憶がある。懐かしい、JCJの原点の場所でもあるのだ。松本社長、ご冥福をお祈りします。ありがとうございました。合掌。
JB64クローラーバンパー仕様
スズキ特約店
スズキ本社で国内営業部と打合せ
神奈川工科大学へ行く
サンドラダーホルダースペアタイヤ用
ジムニーオフロード走行体験会
初級オフロードスクール
95式戦車のお披露目式
エスクードの修理
74期航空学生のファンシードリル
75期航空学生の入隊式
















2023年4月2日は、海上自衛隊の小月基地での第75期航空学生の入隊式があり、25期は招待されて参列。25期と75期のご対面のあと、海上幕僚長がきて我々に挨拶してくれる。体育館からエプロンへ移動して、幕僚長が部隊を観閲する。そのあとは、海上自衛隊のすべての種類の航空機が75期の前をローパスしていく。それぞれの機長の階級、名前、期がアナウンスで紹介される。75期に、『いずれこの飛行機に君たちが乗るのだ』と訓示される。そういえば、25期の入隊式でも各部隊の飛行機が今日のようにローパスしてくれた。P2JもS2Fもあったなと思い出す。でも、今はP1やP3Cだ。それらの機体はもうない。そのあとは、小月の201ATSの教官パイロットが構成するアクロバットチーム『ホワイトアローズ』のアクロバット展示飛行がなんと25分もある。これには、驚いた。小月で飛行展示を堪能しました。これを見なかった同期の人は損したと思いました。人生で一度の経験かと思います。後にも先にもこれ1回でしょう。人生は『一期一会』だと思う。
CCVステッカー

4月9日は、RV4ワイルドグースが、1994年4月9日に開店してから、29年になる日だった。そのような日の少し前に、富山に住む4X4MAGA仲間、CCV仲間の中村一生さんからCCVのシールとCCVのワッペンが送られてきた。なんとも懐かしい石川雄一さんとの思い出の品だ。
このワッペンは、私がインドネシア駐在の時に、ジャカルタの刺繍屋で200枚作り、石川さんへプレゼントしたものだ。たぶん、1993年のことだと思う。石川さんによると、このインドネシア製のCCVワッペンはCCVのライター、協力者に手紙をつけて配布したと聞いた。
それから30年が経過して、私の元へ戻ってきたのだ。今は私も自分のマウンテンパーカーの破れたところにこのCCVワッペンを1枚縫い付けてあるのが、所有している最後のものだ。
RV4ワイルドグースを創業してから29年。CCVのワッペンを見て、これは何かの因縁だろうか?とも思う。石川雄一さんが、何かいいたいのかな?とも思えた。石川さんが亡くなったあとに、CCV編集室から大量のジムニーの資料をもらったが、実は一つも再使用していない。いつかは使うと思って、月日だけが経過した。そのことかな?とも思える。
来年は、RV4ワイルドグースを作って、30年の節目になる。石川さんはそれで何か?をやれと言っているのかとも思えた。
懐かしいCCVワッペンを手に取り、実に感慨深いものがある。私もいつの間にか、石川さんが亡くなった年齢を越えた。
38年ぶりの KM2-Bと再会
4月2日201教育航空隊を訪問







4月2日の75期航空学生の入隊式の前に、基地見学をさせてもらう。201ATS(教育航空隊)に行き、指揮所からエプロンを見る。T-5練習機が並んでいる。4階の指揮所に入ると昔と同じだ。38年前を思い出す。飛行空域、練習機と教官と学生の名札を書ける白いボードも同じだ。ハンガーでT-5を見せてもらう。この程度なら今でも乗れるなと思う。老兵はまだ死なないぞ。
ここでは、本当に血と汗を流した。人生でもっともつらい、厳しい数年間だったと思う。時々、よくもあの訓練に耐えられたなと思う。普通の人に話すと、ここでの生活は信じてもらえないほどであることも、あとで分かったが、18歳の時は無我夢中だった。しかし、今となってはすべてが懐かしく思い出される。人生では、よい時間だったと思う。